こんにちは。TS部のsadakataです。
今回も、僕のふるさと・五島について書きます。
前回の記事で、五島の教会を含む長崎の教会群を世界文化遺産に登録する動きが
進んでいることをご紹介しました。(着々と前進しているようです!)
⇒五島を世界遺産の島に!
http://www.city.goto.nagasaki.jp/sekaiisan/news/news_syosai.php?id=127
今回はそれに関連して、五島と隠れキリシタンのお話です。
隠れキリシタンとは
隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代に江戸幕府による禁教令の後、
強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教(カトリック)を偽装棄教したキリスト教信者(潜伏キリシタン)。
1873年(明治6年)に禁教令が解かれて潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信仰者の群(カクレキリシタン)。
引用元:wikipedia
僕もこの記事を書くために調べるまでは知らなかったのですが、隠れキリシタンには2つの意味があるようです。
(1)潜伏キリシタン
⇒江戸時代、禁教令によってキリスト教信仰が禁止された後も密かに信仰をつづけ、
後世に伝えた人々。こちらが一般的にイメージされる隠れキリシタンですよね。
(2)カクレキリシタン
⇒1873年に禁教令が解かれた後もカトリック教会に復帰せず、潜伏期の信仰を続けた人々。
こちらの意味はご存じない方も多いのでは。
「潜伏キリシタン」として迫害から逃れた人々がキリスト教を独自に変化させながら伝え、
それを信仰する人々が、禁教令の解かれた後もカトリックとは一線を画した独自の信仰を貫き、
「カクレキリシタン」として生活していたんですね。
五島と隠れキリシタン
禁教令が発令されておよそ200年後の1797(寛政9)年、長崎・大村領民の五島移住政策がとられます。
これは大村藩の人口抑制と五島の農業活性化のために1000人を大村藩から五島藩に移住させる
政策でしたが、結果的には3年の間に約3000人の農民が五島へ移住することとなり、
そのほとんどが潜伏キリシタンだったといわれています。
当時、五島は比較的監視の目を逃れやすいとされていましたが、それでも潜伏キリシタンたちは
仏教徒を装い生活していました。
・参考「五島キリシタン史」
http://www.city.goto.nagasaki.jp/sekaiisan/handbook/pdf/07.pdf
五島の教会
禁教令が解かれ、表立った信仰ができるようになると、各地に続々と教会が建てられます。
五島列島には現在でも合わせて約50の教会が残っています。
僕の生まれ育った福江島の教会のうち、いくつかをご紹介します。
堂崎教会
1907年建立。長崎県指定有形文化財。
中には26聖人(※)のうちの一人、ヨハネ五島の聖骨が安置されている。
※26聖人:
禁教令発令後、まだ大規模な迫害が行われていなかった時期に、宣教活動を理由に
豊臣秀吉によって処刑されたカトリック信者たち。日本で初めての殉教者となった。
水之浦教会
1880年建立(現在の建物は1938年に建て替えられたもの)。
禁教令解除後、五島内でいち早く建てられた教会の一つ。
楠原天主堂
1912年建立。大村藩から移住してきた潜伏キリシタンたちの第一陣は、この楠原地域に居住した。
近くには、明治初期の迫害当時にキリシタンたちが閉じ込められた牢屋の跡がある。
おわりに
教会の建立当時は、子供からお年寄りまで多くの人が資材を運ぶなどして協力したそうです。
300年近く続いた禁教令から解放された喜びは、どれほどのものだったでしょう。
五島列島にある教会をめぐるツアーもあるようです。
それぞれの教会の歴史に触れて、キリシタンたちの思いを感じてみてはいかがでしょうか。